isozakiaiの呟き置き場(旧:愛のカラクリ、AI日記)

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ラファティ『トマス・モアの大冒険 パスト・マスター』 

自分が、終末のときに生きていると感じたことはないだろうか?
わたしは、この本のラスト一行をここに記すことが恐ろしい。

 静かに。希望を持って。



トマス・モアの大冒険―パスト・マスタートマス・モアの大冒険―パスト・マスター
(1993/01)
R・A・ラファティ

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ラファティの名前はラファエルで、いかにも優しげな天使のはずなのに、いま、わたしは世界の終わりを告げるものの到来に恐れ慄いている。
また、これを書かずにはいられなかったラファティの魂にも驚いている。

この物語は、タイトルにあるとおり、トマス・モアが主人公だ。
原題は、PAST MASTER。

トモス・モアは、当然のことあの『ユートピア』の作者である。


ユートピア (岩波文庫)ユートピア (岩波文庫)
(1957/01)
トマス モア

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わたしは真っ先に、ホルバインの有名な絵を思い出す。
よく知られるように、断頭台に送られた聖人でもある。
この物語は、タイトルどおり、トマス・モアが主人公の冒険物語だ。
だけど。
そのように期待して読んでみるのがいいかもしれないと、素直にすすめられないわたしがいる。

ラファティはサンボリストだ。
ひとの世にはびこるその「象徴」を疑ってかかり、それを破壊するようにして、それ本来の美しさ、正統さ、ありとあらゆる夢のお告げを改めて、語りなおそうとしている。

ラファティが「天使」であることはすでに『「非モテ&非コミュ」小説家としてのラファティ、あるいは別の何者か』でお伝えした。
わたしは、読むたびに、その想いを強くする。
彼がアメリカのアイルランド系カトリックの家に生まれたこと、そして大酒呑みであること、つねに家のなかで「法螺話」が紡がれていたであろうこと、10歳のときに大部の歴史書全18巻をカメラで写すように自分の身のうちに蓄えたこと、電気技師であること、独身であったこと、戦争で海にいったこと、45歳でデビューした(いきなりSF小説を書き出す、だっただろうか?)ことなど、わたしはその小説を読むたびに思い出す。

ラファティの書いているものは、どうやら、彼の現実世界と他者の現実世界をつなぐ夢の架け橋であるようにも思う。

彼は通常、SF作家として評価されているのだろう。
でも、ラファティは他の誰にも似ていない。

誰にも似ていないラファティ。
誰とも小説作法を分かち得ないラファティ。
誰の作品ともかぶらないラファティ。

真の意味での孤独である。

何度でもくりかえすけど。
それはまるで、アーサー・C・クラークの傑作SF小説『都市と星』の主人公アルヴィンのようだ!


都市と星〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫 SF ク) (ハヤカワ文庫SF)都市と星〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫 SF ク) (ハヤカワ文庫SF)
(2009/09/05)
アーサー・C・クラーク

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(新訳よむぞ~!)
ちなみに、「クラークのところどころ」はラファティのお気に入りでもあるそうで、この『都市と星』もおそらく彼は好きだったのではないかとわたしは勝手に想像する。周知の通り、これはユートピア(ディストピア)小説という「世界について」の物語であり、同時に英雄という「個人について」の冒険物語であり、宇宙とはなんであるか人間とは人類とはなんであるか、真の知性とは藝術とは物語の意味とはなんであるかなど、さまざまなSF的哲学的テーマを語るものだ。


この『トマス・モアの大冒険』も、扱うテーマはそれと同じものといえよう。
ただし、語り口が違う。

クラークの、淀みなく滔々と流れ出る、知性と理性溢れる教養深い男性特有の、低く、安定感のある声ではない。
ラファティは調子っぱずれだ。ちょっと聞いただけだと、下手な、素人歌手のような趣である。
だからなかなか理解されにくいと思ったりする。
とはいえ、いくつかの短編など、あの一連のラテンアメリカ作家たちを凌ぐほど切れのある魔法をなんのことのない様子で使ってくる。そしてそれは、決してまぐれではないと、わたしは感じる。

わかりやすく筋道が見えるように、読者をおいてきぼりにせず、読んでる途中で頭がこんがらがるような書き方をしなければ、ラファティはきっともっと売れっ子作家になったに違いない。
では何故、彼は、そのように書かないのだろうか。

「書けない」からだ。
そうは書けない。どうやっても、そうは書けないのだ。

わたしたち人間はすでに、紙に書かれたもの、小説として体裁を整えて本になってしまったものに距離をおくことになれている。
書かれることで、記されることで、「対象」はいったん据え置かれてしまう。
たとえば「虚構」というものに、それらは否応なく押し込まれてしまうのだ。


ラファティは、そんなことは許せない。
彼の書くものは、彼の現実だ。
彼が見ている世界で、住んでいるところで、それはもう、誰がなんと言おうとそこに厳然とある。
物語が虚構という力ない世界に追いやられ、そこで汲々としている事態に彼は耐えられない。
きっと、そう考えていたに違いない。

そしてまた、自分が「小説の登場人物ではない」と、誰が言い切れるものだろうか?
本を読んでいるとき、あなたはその世界のなかでこそ、生きていないだろうか?
ラファティはそれを知っている。
だから、ああいう風に書く。

誰もが、自分の世界の全貌は理解できない。
わたしが思うに、小説の主人公たちは賢すぎる。または、無知すぎる。

この小説は、トマスの、彼のいる世界への無理解と理解のあいだをいったりきたりする。
その頭のなかにはときに、蛇(邪悪なもの、悪魔や虚無)が巣食う。
そしてまた、トマスは自分の記したもの、創造したものさえ思い出せない。

これこそが、「人間」ではないだろうか?
ひとは忘れ、思い出し、見落とし、気がつき、それをくりかえす。

わたしは、ラスト・シーンのちかくで号泣した。
(ラファティは、わたしをよく泣かせる。すれっからしの、小説を読むことには少しは鍛錬している中年女を、子供のようにヲイヲイ泣かす。いい趣味だよ、レイフェルおじさん!)


 どうして、この私なんだ、フェビアン? どうして、この私を選んだ?


トマスのこの叫び!!
この胸から心臓を抉り取られるような叫び。
これを聞いても、なんの恐れもなく、怯えないでいられるひとは本を読む必要は一切ないと、わたしは思う。

選ばれることの意味について、わたしは幾度も考えた。
ジョルジュ・バタイユは、「物語の主人公になりたいと思わないひとはいない」(正確な引用ではないです、スミマセン)という。


エロティシズム (1973年) (ジョルジュ・バタイユ著作集)エロティシズム (1973年) (ジョルジュ・バタイユ著作集)
(1973)
ジョルジュ・バタイユ

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そのとおり。
そのとおりだけれども、この言葉を文字通りに受け取ってはいけない。

わたしたちは実は、安心しているのだ。
どんな悲劇も、痛みも、苦悩も、それは「虚構」の人物が(または、恐ろしいことに「他者」が)代替してくれていると。


事実は、違う。
トマスの現実。
彼の一度目の生を見よ! 断頭台に送られたのは、他の誰でもなく彼なのだ。

「彼は聖人だ」

ひとはそう言うかもしれない。
でも。
もう一度、思い出してほしい。

トマス・モアは聖人として奉られた。
たしかに列聖はされた。
けれど、聖人として生まれたわけではない

誰も、聖人として生まれない。聖痕をもって生まれたわけではないのに、彼は聖人になった。
それは、彼が選び取った「人生」ゆえのことだ。

「いや、彼はそういう風に生きることのできる立派な、特別な人間に生まれついたんだよ」

そういう反論もあるだろう。
わたしも正直、そう、思いたいこともある。


それでも。
ラファティは、そのことを断固として否定する。
否定するために、彼はああいう風に書いたのだと、わたしは思う。

英雄は、その行いのゆえに「英雄」になるのだと、ラファティは全身全霊で訴える。
この、滅びにむかう世界で、「二十五時」を迎えたこの世で、たったひとりでその恐ろしいものに立ち向かうことで、そのひとは「英雄」になる。

つまり、MASTERである。

「主」とは、己の「あるじ」でもある。
この世界のぬしであり、王であり、すべてである。
もちろんそれは、キリスト教的意味であれば、その通りの意味だ。

ここで、ラファティはサンボリストだと、くりかえしておこう。幾重にも意味をかさねた象徴を、ことごとく破壊し、再生するのが彼の仕事だ。
物語の滑り出しはなめらかでありながら、途中とちゅうで迷路のように複雑化してわかりにくくなる。
よそから来たヒーローが、狂える世界、滅びに瀕した世界を救うという、ある種陳腐で単純な物語構造さえ、読者に見抜けなくなるほど、彼は語る。

語らずにはいられないから、語る。

ひとは迷い、自分を見失うものだからだ。
その見失い方には、整然としたところはない。人生とは、そういうものだ。

わたしは、そうして彼の声を聞く。
聞いて、また語る。語りたくなる。

「黄金のアストローブ」(それにしても、なんと美しい名前だろう! 曙光の煌きと永遠不変の太陽の輝きという衣を身にまとった女神の完璧な姿を思い起こさせる)の世界がどうなったのかは、読者自身がたしかめて、そして、想像してほしい。

 静かに。希望を持って。



そのときになって、この言葉の重みがぐっと胸にせまることだろう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
(2008年に読んだときの感想でした☆ わたしの語りも錯綜しとりますがなv)


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オリジナル小説サイト『唐草銀河』(R18一部例外あり)の管理人・磯崎愛です。
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