谷崎の「少年」を読み返す
大谷崎サマの「少年」が読みたくて、『刺青・秘密』をめくる。
刺青・秘密 (新潮文庫) (1969/08) 谷崎 潤一郎 商品詳細を見る |
「少年」を図書室で読んだ当時高校生のわたしは(これじゃなくて、全集だったような気がする)、「出色の出来栄え!!」と感銘を受けたものであるが(えらそうなのは、何卒お許し願いたい。若さとは、そういうものではあるまいか)、ン十年ぶりに読み返し、「なんですかこれ、凄すぎる! これで二作目なの? どんだけ凄いの!?」と素直にひれ伏して頭をたれるのみ。わたし、オトナになったわv
当時から初期作品というと「刺青」をあげるひとが多くて、わたしはひとり、「少年」のほうが絶対にイイって思ってたのですねえ。いやはや。でも、だって、そう思いませんか?
今回ほんとにビックリしたのは、技巧の凄まじさ。
むろん、内容のアヤシサを抜きにしては語れないであろうが、そこに描かれている事柄の魅力(ミリョク、ですよね??)を抜いたとしても(というか、それがための凄さ、なんだけど)、そのパーフェクトな構造、語り口の滑らかさ、緩急のつけ具合、字句の並び、揃い、内容の反転とずらし等などが堂々たる超絶技巧なのに慄いてしまう。
あわてて今、解説をよむ。
すると谷崎自身、
『少年』は前期の作品のうちでは、一番キズのない、完成されたものであることを作者は信じる。
とある。
作家が自作について語るのを、まんま受け取るなんて愚かしい真似は戒めるのが常であるが、これは、素直に飲み込んでイイ気がする。会心の出来。
谷崎の丸顔に浮かぶ、満月のように誇らしげな笑みが見えるような作品である。
さて、自分もがんばろうっとv
潤一郎ルネサンス
中央公論社の「潤一郎ラビリンス」の洒落です。ハイ。
ついでに、わたしはこの「ラビリンス」と「ジュンイチロウ」のもつ「ン」の重なりが気持ちよい。
さらには「迷宮」の語の妖しい魅力と、それが小説の「構造的美観(建築的美観)」というものに執着した谷崎を天才ダイダロスに喩えるようで、そしてまたそこに彷徨うミノタウロスの生死の悲劇的美しさをも思わせて、とてもとっても大好きなのです(実は、タニザキこのシリーズでは読んでないのだ。いつか買うぞ!)
潤一郎ラビリンス〈1〉初期短編集 (中公文庫) (1998/05) 谷崎 潤一郎 商品詳細を見る |
さて。
あの大タニザキに「俺おま」を感じてやまない今日この頃、
みなさま、いかがおすごしでしょうか?
(って、わたしってば、なにスットボケようとしてるんですか!?)
なにを言いたいかと申しますと、
あまりにも、あまりにも、
谷崎の「饒舌録」と「藝術一家言」が面白いので、
「みんな、読んで~~~~~~~っ!!」
ってお願いしたい、ただそれだけです。
ええ、ほんともう、そんだけなの。
谷崎潤一郎全集 (第16巻) (2000/01) 谷崎 潤一郎 商品詳細を見る |
ん、これ?
2000年に出てるってことは、わたしが図書館から借りてきたのと違うかな?
えっとですね、手許にあるのは昭和三十三年発行。
「装丁・棟方志功」、「挿画・小出楢重」、「解説・伊東整」、「付録・ドナルド・キーン&平野謙」という豪華絢爛な布陣。
象牙色の生地に下三分の一におおどかな花模様を金糸で織り出した布張りの本で、何版というのでしょ? 文庫本よりちょっと縦長サイズです。背文字は緑青。これは捺してあります。
(なによりも、おおらかじゃなくて、オオドカと言いたいような古びた雅味と洒落たモダンさが矛盾なく同居しているのですよ!)
この生地が、指先に触れるとたいそう心地よい。官能的という言葉だとあまりに現代的でアッタリマエなので(笑)、躊躇いながらも、本を女性に喩えて褒め称えたくなります。
顔も装束も中身もすべて、見て触れて、言葉を交わし、そのなにもかもが素晴らしく美しいと!
(あまり麗々しくないところも、好いと思われ。愉楽、悦楽、愉悦、歓楽、さて、この感覚をなんと呼びましょうかねえ?)
あ、でも、これをおすすめするには芥川ファンにはしのびなく(憤るならまだしも、さめざめと泣きたくなるやもしれませぬ)、ことに漱石ファンのみなさまには不愉快な想いを召されるかもしれないと存じます。
わたしには、いろいろナットクだったのですが……。
「小説論・物語論」または「芸術論」と「芸術家の精神論」としては、まったく古びていないものと思います。文学の芸術性を云々したい方にはもちろん、エンタメ小説ファンなら尚更、じつに面白みのある語り口と受け取ってもらえそうな気がいたします。
なにしろ、こんな文章が頻出するのですよ(引用にあたり漢字は改めています。旧字の出し方わからないのです、ゴメンナサイ!)
泉鏡花氏の如きはキザの方では隊長であるが、その傑れた作品を見ると、キザだキザだと思ひながら結局征服されてしまふ。
「隊長」ですよ! タ・イ・チョ・ウ!
しかも「征服されてしまふ」って、もう、タニザキせんせったらお茶目すぎるわ。
それから、洋の東西比較論としてはいささか肌理の粗さを感じないでもありませんが、1927年当時のこととすれば、やはり一見識以上のものであったと言わざるを得ないのではないでしょうか。
個人的には、
思へば西洋人はおせつかひをしてくれたものだ。(強調部分、原文では傍点)
などを見ると苦笑を禁じえないどころか、ため息とともに肯いてしまいます。
また、こちらは有名な、なんとも言いようのない結語です。
それにつけても、故人の死に方は矢張筋のない小説であった。
故人が誰であったかは、語らずとも、ということで。
タニザキがこの友人にどんな想いを抱いていたか知るには必読の書であるいっぽう、これが、故人にたいするものだけでなく、その死に際して「自分は書いて、生きのびる」という谷崎自身の宣言でもあるような、そういう気もします。
何故そんなふうに思ったかと申しますと、この友人の亡くなった日は、谷崎の誕生日でもありました。
ブックマークにて教えてくださったkanimasterさんにお礼を申し上げます。ありがとうございます。
また、このふたりの小説家の論争(? とは呼べないでしょうが)にわたしの興味をむけてくれ、この本をくださったSIMPLETONさんにも感謝を!
座談会 昭和文学史〈第1巻〉 (2003/09) 井上 ひさし小森 陽一 商品詳細を見る |
そんなわけで、
細かいところはさておきまして(だって、ダンテよりゲーテのほうが偉いっていうのはわたし、納得できないわ!)、
この「饒舌録」と「藝術一家言」は、
わたしとしては初めに掲げた「俺おま」というコトバで笑い逃げしたい臆病さと、
いつまでも他人面して語っていたい厚顔さの、
相反する想いに引き裂かれておりまして、
気の抜けたビール
という、耳馴染みのある慣用句をここに見つけましたことを望外の喜びとし、
これが、夏目漱石の『明暗』(みなに嫁ヨメ言われながら未読なのですよ)に付されたものであることをお伝えして、
いつも通り、まとまりのない文章を閉めさせていただきとう存じます。